エロースとアガペー その1


 学校の教科図書にスウェーデン神学者ニーグレン著の「アガペーとエロース 第1巻 キリスト教の愛の観念の研究」(岸千年・大内弘助共訳 新教出版社刊 1954年)という本を見つけた。あのキリスト教アガペーとギリシア哲学のエロースの比較をした古典的名著である。

 ギリシア語で「愛」を意味する言葉にはいくつかがあるという。
 その一つは「フィリア」であり、これは「友愛」を意味する。正義とこの友愛は古代ギリシアのポリスの倫理の中心的な概念であった。「フィロソフィー」はソフィーつまり「知を愛する」ことからピタゴラスが作った造語であるとされている。そして明治期の哲学者西周はこれを「哲学」という漢字熟語をあてた。「フィラントロピー(博愛)」は「フィロ」+「アントロポス(人類)」から生まれた言葉である。

 他のひとつは「エロース」である。もともとはギリシア神話の「愛の神」の名前であった。エロースはポロス(富裕)とペニア(困窮)の子として生まれ、万有を結合
する力を持っていたという。アリストファネスは「人間(アンドロギュノス)には男男、女男、女女の三種があり、それぞれ背中合わせに顔が二つ、胴体がひとつ、手足が4つあった。その力は強大で神々に挑戦するものとなったためにゼウスが二つに切断した。かくして愛は切り離された半身を求め合うようになった」と述べている。
 プラトンはこのエロースにあたらし意味を付け加えた。魂は前世においてイデアの世界を見ていたが、肉体に閉じこめられたた身となってもそれを忘れられずにときど
き想起(回想 アナムネーシス)する。このイデア界へのあこがれ(愛慕)こそエロスだというのである。より美しいもの、真実や善へのあこがれがエロスであるわけである。
 従ってプラトンの愛の概念として、エロスは欲望の愛であり、エロースは神にいたる人間の道であり、エロースは自己中心の愛であるという3点が考えられる。

 新約聖書では「愛」はアガペーというギリシア語があてられている。アガペーは人間に対する神の愛を示す。ニーグレンによればそれは次の4つの意義を持っている。
1.アガペーは自発的で、「誘発されないもの」である。神の本性に基づくものであり、それ以外の誘因はない。
2.アガペーは人の功績に関わりがない。神は善人だけを愛されるのではなく、むしろ罪人をその罪にも関わらず愛された。
3.アガペーは創造的である。それ自体の中に愛される価値のあるものを愛するのではなく、それ自体の中に価値のないものが神の愛の対象であるという事実によって価値を得る。
4.アガペーは神との交わりの道を開く。人間の側から神に到達できる道はない。神ご自身が人間に至る道である。

 ラテン語の「カリタス」もまた「愛」を示す言葉である。現代の英語の charity の語源である。これをエロースとアガペーの総合という意味で理解したのがアウグスティヌスであった。中世のキリスト教はまさにカリタスの宗教であった。ダンテはカリタスの詩人であり、パスカルの愛の観念もまさにカリタスであった。
 ルネッサンスは一時的にエロースの復活がもくろまれている。
 これを再び切り離したのはルターであった。ルターはまたキリスト教の愛の観念の偉大なる改革者でもあったといえよう。