バウンティ号の叛乱とピトケアン島


1972年6月5日の朝日新聞に掲載されていた記事で知ったことです。
題して「バウンティ号の叛乱とピトケアン島の話」です。この記事は「ミニ・ユートピア始末記」と題されています。
この記事を書いた由良君美という先生は私が教養学部時代に英語を教わった先生でした。
なかなかおもしろい英語講読の時間だったと記憶しています。

時は1789年4月28日です。フランス革命の開始を告げたバスティーユ獄の陥落の数ヶ月前のことです。
南太平洋を航行中だったイギリス海軍の軍艦のなかで叛乱が起こりました。
反乱軍の首謀者は副航海士だったフレッチャー・クリスチャン。彼に従う数名が決起して艦長ブライを捕縛し、バウンティ号をシー・ジャックしました。
艦長ブライとその手下にはわずかの食料を与えただけで1隻のランチにおしこめて太平洋上に追放したのです。
この軍艦は東インド諸島からパンの木タヒチ島へ運んで帰国の途についていた。
ルソーとワーズワースの詩に影響されていた副航海士クリスチャンは楽園タヒチユートピアを築こうと叛乱を起こす。叛乱は成功した。
いったんタヒチ島に戻り、何人かの島民を乗せて南海をさまようが、結局彼らはピトケアン島という絶海の孤島を見つけてここをユートピアの島として住み着く。

第一部はここまでである。このくだりは映画「バウンティ号の叛乱」や小説にもなって紹介されている。
また艦長ブライも南海を漂流した結果、最後は故国にたどりつき、故国では英雄扱いされていた。

話には第2部がある。
彼らはピトケアン島でユートピアを建設できたのであろうか。

2年は平和のうちにすぎた。島では子どもたちも生まれ、「自由・平等」のユートピアが築かれるかのごとく見えたが、しかしこれは永続きしなかった。
あまりにも血なまぐさい人間の醜い争いが待っていたのである。

この島に定住したときはクリスチャン以下9名の白人の男と、6人のタヒチ男、12人のタヒチ女と2人のタヒチの少女とで構成されていた。白人たちはそれぞれタヒチ人の妻を迎え、残るタヒチ人の女性を残りのタヒチ島の男たちの妻とした。
しかし白人ウィリアムズの妻が病気で死んだ。白人たちはタヒチ人の男から妻を取り上げ、ウィリアムズの後添えとした。事件はここから人種差別事件として始まる。
妻を奪われたタヒチ人の男を中心として再び反乱が起こり、白人たちは次々に殺されてしまう。
今度は男たちの醜い争いに耐えかねた女性たちが武器を取って立ち上がり、ついに男たちはひとりの白人だけを残して死んでしまう。
ただひとり残された白人男性のアレクサンダー・スミスは無学文盲で革命もユートピアの高邁な理想も持たない平凡な男だったが、この人間の罪深さにめざめ、バウンティ号の船室から運び出されていた聖書を独学で読み出し、これをもとに礼拝をはじめる。
この礼拝にまず参加したのは子どもたちであった。やがて女たちもしだいにこの礼拝に参加し、醜い抗争の末命を落とした仲間たちの霊を弔う。

革命とユートピアの理想→シー・ジャック→ミニ・ユートピアの建設→性と人種差別→女性たちの叛乱→信仰による和解。
ここには「人類史の縮図」ともいえる歴史があるが、醜い争いを収拾したのは1冊の聖書と礼拝の時間であったことが、私の心を打つ good news である。