「赤い鳥」時代の作家宇野浩二の作です。
あらすじは次のようです。
昔ある小さな貧しい村に一人の旅のお坊さんが逗留しました。
村人の心温まるもてなしに感謝したお坊さんは、お礼に2体のお地蔵さまを置
いて置こうと約束されました。
「村の西のお地蔵さまは「聞く地蔵」で、このお地蔵さまに願うことは皆かな
えてくださる。
村の東のお地蔵さまは「聞かぬ地蔵」で、このお地蔵さまに願ってもただ黙っ
ているだけで、願いはいっこうに叶えてくださらない。
けれど、西の地蔵よりも東の地蔵に祈る方がいいのだぞ」
お坊さまはこのように言い残して村をでて行かれました。
村人はおそるおそるその両方のお地蔵さまに祈ってみました。「聞かぬ地蔵」
は確かにただだまっているだけでしたが、「聞く地蔵」に願ったことは、こと
ごとく実現していったのです。
このことを聞いた村人は、皆「西の地蔵」にお参りするようになりました。
その祈りのおかげで、村には病気もなくなり、豊かになり、立派な家が建ち並
ぶようになりました。
西の地蔵さまの前にはお店もならび、訪れる人が絶えませんでしたが、東の地
蔵さまは訪れる人もいなくなりました。
ここまでだったら「めでたしめでたし」なのですが、そうはいかないのが人間
の欲望です。
そのうちに村人は互いに比較しあい、隣のうちより豪華に、もっと金持ちにと
願うようになり、悪いことには誰も働かなくなってしまいました。
さらに悪いことには、誰かが、隣人の不幸を願うことになってしまったのです
。
「あいつが病気になりますように」「あの家に不幸が訪れるように」と祈りだ
したから、たまったものではありません。あんなに豊かで幸福な村は一挙に不
幸のどん底に落ちてしまったのです。
村人の間ではいつ自分の不幸が祈られるのかと不安でしょうがなくなり、隣の
人も信じられなくなりました。
そこへあの坊さまがふたたびやってきたのです。
「だから東のお地蔵さまに祈るほうがいいといったではないか」
それを聞いた村人は、やっと目が開き、東のお地蔵さまに祈ることにしました
。何の願い事も唱えずにただ無心にお参りするだけにしたのです。
その結果、村は貧しくなったけれど、村人たちは再び一生懸命に働くようにな
り、人々の間の信頼も回復されるようになったということです。
おしまい。
さて、みなさんはこの話を聴いていかがお思いですか。
「祈りとは?」ということについて大事な示唆を与えているように思います。