詩編19章 天は神の栄光を語り

詩編十九章                         

 祖父のもっていた聖書が私の手元にある。私が生まれてすぐに亡くなった祖父であったから、私の
記憶には仏壇にあった祖父の写真の姿しかない。その聖書は「我らの主なる救い主イエス・キリスト
新約聖書詩編付き」である。英国聖書協会というところから発行され、奥付には初版大正八年で昭
和九年印刷の四五版とある。文語の聖書である。
 ほとんど書き込みもなく、あまり読んだあともみられないのだが、なぜか詩編のところだけしるし
がついている。中でもとりわけ大きな○がついていた詩編があった。一九章一〜六節である。

 もろもろの天は神の栄光をあらはし 
 穹蒼(おほぞら)はそのみ手の所作(わざ)をしめす
 此の日言(ことば)を彼の日につたへ 
 此の夜知識を彼の夜におくる
 語らず言はず その聲きこえざるに
 その響きは全地に遍(あまね)く 
 其言は地の極(はて)にまで及ぶ
 神は彼處(かしこ)に帷幄(あげばり)を日のために設け給へり
 日は新郎(にいむこ)が祝筵(いはひ)の殿をいづるごとく
 勇士(ますらお)が競走(きそひはし)るを喜ぶに似たり
 その出立つや天の涯(はし)よりし 
 その運(めぐ)り行くや天の極(はて)にいたる
 物としてその和煦(あたたまり)を被(かうぶ)らざるはなし

 実はこの詩編一九章の文語訳は劇作家木下順二氏がほとんど「奇跡」とでも言っていいほどの名訳
であると絶賛していた。

「詩編」第一九冒頭の六節の文語体による邦訳ほど見事な文章はないという気がそこを読み返すたび
にする。…………どの英訳よりもすぐれている。二種類の現代語邦訳もむろんとうていこれに及ばな
い。私はこの数節から、信仰の有無ということは別のところで、われら人間なるものに強く訴えかけ
てくる高らかなひびきを感じとる。われらが宇宙と自然と生とは、まさにかくのごとく壮麗であり荘
厳であり厳粛でありそして繊細であるのか。…………
 大空に現れた神の栄光の賛美である上掲の六節を読むと、無条件にその通りだと感じないわけには
いかぬ。これらの言葉が耳の中であるいは遥かな高みで鳴り響いていることを、読み返すたびに私は
ほとんど実感する。(「ちくま」八八号一九七六年八月刊)

 私の祖父がこの箇所に赤い○をつけたのもまさにこのことに気づいたからなのであろう。これを自
分で見つけたのかそれとも誰かからそうきいたからなのかはわからない。
 ぜひ、声を上げて朗読してもらいたい。
 そういえば典礼聖歌の一四七「天は神の栄光を語り」はこの詩編を歌ったものであるが、これもな
かなかいいと思う。