メモ

この日、父は、内科の先生に
アルツハイマー病だと診断されたことを伝えておくと言いました。

(1年前の話になりますが)
実をいうと、父は自分から直接、物忘れ外来を受診したのではありません。
まず、いつも診てもらっている内科のO先生に
 『最近、物忘れがひどい』 という事を相談しました。
すると、O先生は
 「物忘れ外来という科があって、こないだ来たばかりの良い先生がいるから
  そちらの専門の先生を紹介しますね」
と言い、今の先生を紹介してくれたのです。

あれから1年経ち、アルツハイマー病だと分かったのは
O先生のおかげでもあるから、一度キチンと報告しておきたいとの事でした。

父 「実は、こないだアルツハイマー病だと診断されたんです」
先生「そうなんですか〜」
とあまり驚いてない様子。

父 「あれ? 私、先生に言いましたっけ?」
と、ニガ笑いしながら聞き返すと

先生「あっ、えっええっと〜
   前に、ちらっと聞いたような気がしたんだけど・・・
   でも、もしかしたら私の勘違いかな・・・
   精神科の先生から聞いたんだったかな・・・
   いやまてよ、一味さんのカルテに書かれてたのを、たまたま見たんだったかな・・・
   一味さんからは、聞いてなかったですね。私の勘違いです。」   
と、しどろもどろな様子(笑)

診察が終わり
私 「先生、すごいあせって、一生懸命ごまかそうとしてたけど
   あの様子は、病気の事を知ってたな」
父 「うん、お父さんもそう思った。お父さん、前に言ってたんやな多分。
   さすがに、あの先生の喋り方は、お父さんでもウソって分かったわ(笑)」
私 「でも、ええ先生やな〜。ウソが下手やけど(笑)」

精神科の先生が、父の病気の事を口外するとは思えないし
診察カルテをいちいち見るほど、O先生も暇じゃないだろうし。
O先生は、父が傷つかないように、気を使ってくれたんだなと思いました。

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続いて、精神科です。

これまで、父は “調子はどうですか?” という先生の言葉に対して
“おかげさまで” と、軽く答えていましたが
前回の診察後から
もしかしたら、先生は本当に 『調子がいい』 と勘違いしているかもしれない!
と、ひどく気にするようになっていました。

なので、これまでを振り返って思いついた事や、毎日の生活で気づいた症状などを
父自身が、メモしていき
そして診察前日に、弟がそのメモ書きを
分かりやすくまとめ書き直して、先生に渡そうということになりました。

(つづく)

1979年のヨハネ・パウロ2世との教皇謁見

私は1979年にローマで開かれたCLC(Christian Life Community)世界大会 Rome'79 に日本の代表として参加した。世界の45カ国から100名以上の参加者による国際会議であった。
このときのハイライトはなんといっても就任間もないときの前教皇ヨハネ・パウロ2世との謁見であった。

大会の何日目かに、今日は「教皇謁見」があるというアナウンスがあったのだが、私はその「謁見」という言葉が分からずにピクニックにでも行くのかなと思っていた。それにしてはみな正装していたので、へんだなと思ってはいたのだが、どこに行くんだと人に聞く勇気はなかった。
バスは田舎のほうの山の中に入っていったので、ますますピクニックだとおもってたのである。あるお城みたいなところにつくと、そこにはたくさんの人たちがいた。人混みをかき分けて私たちは城の中のある部屋に通された。私はまだこの時点でも「なんだ、古城の見学か。それにしてもたくさん人がいるな」くらいにしか思っていなかった。
外の人たちは「ビバ、パパ!」と叫んでいて始めて「教皇謁見」であることを知ったのである。そこはカステル・ガンドルフォという教皇の別荘であったのだ。

 

 


pope1時間くらい待たされて、白いスルタンを着た教皇が現れた。「ほんとうだ!教皇ヨハネパウロ2世だ。」かれは一同の前で、短いメッセージを読み上げられた。
それが終わると聞いていた人はみなわれさきにと教皇の前に駈けより、握手を求めだした。私は例のごとくどうしたらいいのか判らずに出遅れてしまったが、それでも教皇と握手をすることができたのである。
教皇の手は私の手より冷たかったが、でも大きくて柔らかだった。
「日本から着ました。ぜひ日本にも着てください」と私は英語でいったのだが、「Sometime in the near future」と応えられたと記憶しているのだが、さだかではない。

実際にその何年後かに教皇ヨハネ・パウロ2世は日本に来られるのである。
幸いにもあとで、そのときの私が教皇と握手している写真が届けられた。
私はその写真をそれほどありがたいものとは思っていなくてほとんど誰にもみせなかったのだが、なにかのきっかけでその写真を教会の人たちに見せるととてもうらやましがられ、それで始めて教皇謁見の価値を知ることになる。
そして教皇がなくなられたときに、その写真をもう一度とりだして、みなにみせびらかしたものである。

ヒゼキヤの涙


 イザヤ38章の1〜6,21〜22,7〜8節に「ヒゼキヤの涙」と題されたこんな話しがあります。
 ときどき聖書にこんな所があったのかという発見をしますが、ここはまさにそういう箇所でした。

 そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者アモツの子イザヤが訪ねてきて、「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』と言った。ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。「ああ、主よ、私がまことを尽くし、ひたむきな心を持って御前を歩み、御目にかなう善い行いことを行ってきたことを思い起こしてください。」こう言って、ヒゼキヤは涙を流しておおいに泣いた。
 主の言葉がイザヤに臨んだ。「ヒゼキヤのもとにいって言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。私はあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、私はあなたの寿命を15年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。私はこの都を守り抜く。
 イザヤが「干しイチジクを持ってくるように」と言うので、人びとがそれを患部につけると王は回復した。ヒゼキヤは言った。「私が主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか」
 ここに主によって与えられたしるしがあります、それによって主は約束なさったことを実現されることがわかります。
 「見よ、わたしは日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を10度後戻りさせる。」太陽は星の落ちた日時計の中で10度戻った。

 このあと、主の言葉を聞いて命を得たヒゼキヤ王が記した歌『ミクタブ』が載っています。(イザヤ38章10〜30節)この「ミクタブ」もいいのですが、もっといいなと思うのは、ヒゼキヤが神の前に「ああ、主よ、私がまことを尽くし、ひたむきな心を持って御前を歩み、御目にかなう善い行いことを行ってきたことを思い起こしてください。」というところです。
 普通だったら、自分の罪深さを認めてそれを悔いるところなのでしょうが、ヒゼキヤはそうではなかった。ここはヨブにも通じるような気概を感じます。「ミクタブ」にも「あなたは私の罪をすべてあなたの後ろに投げ捨ててくださった」というところがあります。
 自分の罪深さを認める「謙遜さ」よりもあえて「(それらの罪に目を留めるよりも)御目にかなう善い行いを思い起こしてください」とのべたヒゼキヤの「祈り」の方が私は好きです。

 ヒゼキヤは南王国のユダの王。アッシリアに攻められながらもそれに屈することなく、預言者イザヤの激励のうちに宗教改革を断行。異教の神々に頼ろうとする民を戒めながら、ユダ王国の独立を守りきった王である。

ニーバーの祈り

 勇気と冷静さと智恵を

Oh God,         神よ
Give us          変えることの
SERENITY          できるものについて
to accept         それを変えるだけの勇気を
what cannot be changed,  われらに与えたまえ。
COURAGE          変えることの出来ないものについては
to change         それを受け入れるだけの冷静さを
what should be changed. 与えたまえ。
and そして
WISDOM 変えることのできるものと
to distinguish 変えることのできないものとを
the one from the other. 識別する知恵を与えたまえ。

この祈りはすごい祈りだと思う。
この短い祈りですべてを祈り求めているような「究極の祈り」ではなかろうか。

私たちは「変えることのできないこと」を変えようとしてムダな努力をどれだけしているか、そして変えることができるはずのことを、変えられないとして、変えることを怠ってきたことがどれだけあるだろうか。
だから何よりも「変えることのできないことと変えることのできることとを識別する智恵を与えたまえ」と祈る。

ニーバーはドイツの神学者ナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命した。
この祈りは、ニーバーのオリジナルではなく、カトリック教会に古くから伝わる祈りであり、聖ベルナルドの祈りではないかという説もある。

クリストファー・ロビンちゃんの「夕の祈り」

夕べの祈り

小さな子が、ベッドのそばでひざまづいて、
小さな両手の上に、ちいさな金髪のあたまがたれている。
しずかに! シッ! 誰もものをいってはだめですよ!
クリストファー・ロビンちゃんは、今、お祈りをしているのです。

お母さんにお恵みをください。ほんとにそうです。
こんばんのお風呂はおもしろかったかな?
水はうんと冷たかったし、お湯はうんと熱かったな。
あ、そうだ! お父さんにお恵みをください。——すっかり忘れていたよ、ぼく。

指をちょっとあけてみれば、
あそこのドアのところにナニー姉ちゃんのおねまきがみえるよ。
きれいなブルーだ、だけどズキンがついていないな。
そうだ! ナニー姉ちゃんにお恵みをください。
 よい子にしてください。

ぼくのおねまきはズキンがついている。
 それでぼくはベッドにねころぶんだ。
ズキンをすっぽり頭にかぶってしまって、
眼をつむって、小さくまるまってしまえば、
ぼくがここにいるのは誰にもわからないんだ。

そうだった! ありがとう神さま。
 きょうはほんとによい一日だった。
ほかに何かいうことあったかな?
ぼく、「お父さんにお恵みください」といったけど、
それはどんなことかな?
あ、そうだ! いまごろ思い出した。
 神さま、ぼくにお恵みをください。

小さな子がベッドのそばでひざまづいて、
小さな両手の上に、ちいさな金髪のあたまがたれている。
しずかに! シッ! 誰もものをいってはだめですよ!
クリストファー・ロビンちゃんが、今、お祈りをしているのです。

A.A.ミルンによる

努力逆転現象とプラセボ効果

こういう話を知っている?
看護婦だった私の妻から聞いた話。
病棟勤務の「深夜」のとき。「夜眠れないから睡眠薬をください」と来る患者さんが結構いるのだそうだ。そういうとき「これはとてもよく効く最新の睡眠薬であなたのためにドクターが薦めてくれたものだ」といってビタミン剤かなんかの関係ない薬を飲ませる。
でもその患者はその「睡眠薬でもないビタミン剤」を飲むとすぐにガーッと眠ってしまうのだそうだ。
こういうのをプラセボ(偽薬)効果という。
医師とか看護婦とかの「よく効くクスリ」という「権威づけ」や「暗示」が必要なのだろうね。

これってどこか「イワシの頭も信心から」という「信仰」の構造とよく似ているような気がするのだけれど、どうだろうか?

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エロースとアガペーについて その2


さてニーグレンの「アガペーとエロース その2」です。

ニーグレンは「エロースとアガペーの対比が、人生に対する2つの全く異なった態度の対立に拡がっている」と述べ、それは「本質的な対比」であるとする。
以下の一覧はその「本質的な対比」を一覧してあらわしたものである。本来なら横に並べて対比するのだが、このメールではそれをするとレイアウトが崩れるので、一段で並べて表記する。それぞれのワープロに取り込んだあとに2段に対比するように加工されたい。


エロースは、自己のための善の欲求である。
アガペーは、自己を与えるものである。

エロースは、上昇せんとする人間の努力である。
アガペーは、上から降ってくる。

エロースは、人間が神に行く道である。
アガペーは、神が人間に来る道である。

エロースは、人間の功績であり、救いを得ようとする人間の努力である。
アガペーは、無代価の賜物であり、神の愛のみ業である救いである。

エロースは、自己中心の愛であり、もっとも高いもっとも立派なもっとも崇高な自己主張の形態である。
アガペーは、「おのれの利を求めず」惜しみなく自己を消費する、非利己的な愛である。

エロースは、その生命、神の不滅の生命を得ようとつとめる。
アガペーは、神の生命によって生きる。従ってあえてそれを失おうとする。

エロースは、必要感によって、獲得し、所有せんとする意志である。
アガペーは、惜しみなく与え消費する。なぜならそれは神ご自身の豊かさと充足に基づいているからである。

エロースは、元来人間の愛で、神はエロースの対象である。
アガペーは、元来神ご自身の愛である。なぜなら神はアガペーだからである。

エロースは、神に当てはめられる場合には、人間の愛の雛形によって形作られた愛である。
アガペーは、人間に現れる場合には神ご自身の愛から形を採る愛である。

エロースは、その対象の性質とその美の価値によって決定されるし、依存する。従ってそれは自発的ではなく「誘因のあるもの」で対象の価値によって喚起される。
アガペーは、主権を持ち、対象から独立していて、「悪しきものにも善きものにも」注がれる。従ってそれは自発的で、「誘因のないもの」で受けるに値しない人々に自らを贈与するのである。

エロースは、対象の価値を認め、それ故にそれを愛する。
アガペーは、愛し、対象のうちに価値を創造する。