気づき、発見、鏡をコピーしたら

鏡をコピー機でコピーしたらどーなるとおもいますか?
1.まっ白にコピーする
2.まっくろになる
3.コピー機のガラスの下の部分をコピーしてしまう
4.コピー機が爆発する

これは4.だったりするとおもしろいのですが。
コピー機には「鏡を絶対にコピーしないでください」と書いてあったりして。いや冗談です。
ほとんどの人が1.と答えます。
ところがこれは実際にしてみると驚くことに2.なのですね。

献血

私の学校では2月のはじめの土曜日に学校のバザーが開催されます。
これは保護者の会(いわばPTA)主催で、生徒はお手伝いをします。
このときに献血車が学校に来ていました。

私は実はこどものときに輸血によって生きながらえたのでして、献血は恩返しだと思って毎回必ず献血をしていましたが、何年か前に法律の改正があって、輸血をされた人は献血ができなくなってしまいました。
それまでに何十回とことあるごとに献血をしてきたのにこの法改正は納得がいかないのです。

まあ、それはともかく、献血は16歳から可能となります。
ということは高校生は献血ができるのですね。
このバザーの日にはじめて献血をしようとする生徒がでてくるのです。
この献血者の周辺にいて献血しようとする生徒を観察しているとおもしろいというか、生徒たちがかわいいというか、興味ある光景に出くわします。

まず献血車周辺をウロウロする生徒が現れます。

自分は献血することに踏み切れずに献血車の周りをうろうろして献血をして出てきた友達にどうだったと聞いているのです。
そのうちに意を決して献血車に乗り込みます。

最初にテストされます。
血液の比重検査をしますが、比重の軽い生徒は献血できません。
でも生徒たちには「あなたの血は比重が軽くて献血できない」といわれると「やったー」とかいって喜びます。
なにを「やったのか」実は何もしていないのですが、彼女たちには「やったー」なのですね。
この気持ちが何となくわかります。「かわいい」というしかない生徒たちです。

献血を初体験する勇気を持ったけれど、献血のあとに貧血を起こす生徒も少なくありません。
しばらく横になっているとすぐに回復するのですが、この生徒たちも「かわいい」のですね。
「勇気を持って献血にチャレンジした」ことを誉め称えて抱きしめたい感じになります。

献血をした生徒たちは腕に包帯を巻いています。
これは「勇気を持って献血をした」という勲章みたいなまぶしさをもっています。

でもなぜか、最近献血者は来なくなってこの生徒の「かわいい」光景にも出会えなくなりました。

途上国に通じる技術とは?


長崎の出津でド・ロ神父に出会って「技術移転」についていろいろと考えさせ
られました。
もしも、いま途上国に「青年海外協力隊」の一員として派遣されたら。どうい
う技術を持っていったらいいのかを考えてみました。
皆さんだったらどういうものを持っていきますか?

ずっとまえに上前淳一郎の「読むクスリ」という本を読んでいたら、そのヒン
トになる話がいくつか載っていました。

フィリピンに青年海外協力隊として派遣されたある青年の話。
フィリピンでは洗濯の時に衣類をたたいているそうです。これでは生地が傷む
し、洗濯としては非合理的なので、かれは日本から「洗濯板」をとりよせてこ
れを使って洗濯をすることを指導しました。
これがうけて、その町では洗濯板を製造することになって町おこしにも役に立
ったということが紹介されていました。
いまから40年くらい前に日本の中で生きていた道具が役に立ったわけです。

こういう発想の道具や技術が必要なのですね。
ほかにはなにか思いつきますか?

「赤い鳥」時代の作家宇野浩二の作です。

 

あらすじは次のようです。

昔ある小さな貧しい村に一人の旅のお坊さんが逗留しました。
村人の心温まるもてなしに感謝したお坊さんは、お礼に2体のお地蔵さまを置
いて置こうと約束されました。
「村の西のお地蔵さまは「聞く地蔵」で、このお地蔵さまに願うことは皆かな
えてくださる。
村の東のお地蔵さまは「聞かぬ地蔵」で、このお地蔵さまに願ってもただ黙っ
ているだけで、願いはいっこうに叶えてくださらない。
けれど、西の地蔵よりも東の地蔵に祈る方がいいのだぞ」
お坊さまはこのように言い残して村をでて行かれました。
村人はおそるおそるその両方のお地蔵さまに祈ってみました。「聞かぬ地蔵」
は確かにただだまっているだけでしたが、「聞く地蔵」に願ったことは、こと
ごとく実現していったのです。
このことを聞いた村人は、皆「西の地蔵」にお参りするようになりました。
その祈りのおかげで、村には病気もなくなり、豊かになり、立派な家が建ち並
ぶようになりました。
西の地蔵さまの前にはお店もならび、訪れる人が絶えませんでしたが、東の地
蔵さまは訪れる人もいなくなりました。
ここまでだったら「めでたしめでたし」なのですが、そうはいかないのが人間
の欲望です。
そのうちに村人は互いに比較しあい、隣のうちより豪華に、もっと金持ちにと
願うようになり、悪いことには誰も働かなくなってしまいました。
さらに悪いことには、誰かが、隣人の不幸を願うことになってしまったのです

「あいつが病気になりますように」「あの家に不幸が訪れるように」と祈りだ
したから、たまったものではありません。あんなに豊かで幸福な村は一挙に不
幸のどん底に落ちてしまったのです。
村人の間ではいつ自分の不幸が祈られるのかと不安でしょうがなくなり、隣の
人も信じられなくなりました。
そこへあの坊さまがふたたびやってきたのです。
「だから東のお地蔵さまに祈るほうがいいといったではないか」
それを聞いた村人は、やっと目が開き、東のお地蔵さまに祈ることにしました
。何の願い事も唱えずにただ無心にお参りするだけにしたのです。
その結果、村は貧しくなったけれど、村人たちは再び一生懸命に働くようにな
り、人々の間の信頼も回復されるようになったということです。
おしまい。

さて、みなさんはこの話を聴いていかがお思いですか。
「祈りとは?」ということについて大事な示唆を与えているように思います。

電卓で遊ぶ数の不思議 その3

6174は不思議の数字 
またまた任意の4桁の数を思い描いてメモしてください。
ただし「ぞろ目」はダメです。
その数のそれぞれのけた数を大きな順に並べた数から、小さな順に並べた数を
引いてみてください。
例 4231を思い浮かべたとします。
4321−1234=3087
またそれぞれの桁の数を大きい順に並べた数から小さい順に並べた数をひきま
す。
8730−378=8352
同じことを繰り返します。
8532−2358=6174
7641−1467=6174
別な数でやってみましょう。
1000を思い浮かべたとします。
1000−1=999
9990−999=8991
9981−1899=8082
8820−288=8532
8532−2358=6174
7641−1467=6174

何度か同じことを繰り返していくと、かならず6714という数になっていき
ます。
この6714という数はどういう数なのでしょうか。

代数かなんかで実際に繰り返し計算をしないでこの数を導き出すことができる
でしょうか?
(1000a+100b+10c+d)−(1000d+100c+10b+
a)
=999(aーd)+99(b−c)
というところまではわかるのですが、そこから先の解明については残念ながら
私はまだ成功していません。
どなたか成功したら教えてください。お願いします。
これが9の倍数であることはすぐにわかるし、またそれぞれの桁の数の合計が
18であることも経験的にわかるのですが。
6714=9×2×7×7×7
であることも関係あるかもしれません。

この数はカプレカの数というのだそうです。

「ライファーズ 終身刑を超えて」を見ました。


この映画の上映とともに、監督の坂上香さんの講演もありました。
坂上さんの講演もとてもよかったです。映画の良さをとても引き立ててくれま
した。

この作品については
http://www.cain-j.org/Lifers/index_J.html
をご覧ください。

とても感動的な映画でした。
アメリカの刑務所の終身刑受刑者たちの更正プログラムAMITY
を追ったドキュメンタリー映画です。受刑者たちが自分の過去と向き合い、自
分のおかした罪と向き合うことを実は当
ライファーズたちが助けるのです。

たとえば「サンクチュアリー」についての分かち合いがありました。
自分がもっとも心休まり、安心していることのできる場所です。
一番最初のサンクチュアリーは母親の胎内の中でした。
そして家庭がサンクチュアリーであるはずでした。
受刑者たちは、このサンクチュアリーをほとんどもっていなかった、あるいは
壊されていった体験をみんなもっています。
そこを分かち合うのですね。

たとえば「手のエクササイズ」というのがありました。
2人がペアになってお互いの手を見つめ合います、
そしてその手が語るものを読みとろうとします。手にある傷や固くなった部分
が何を物語っているのかを想像して感じたことを分かち合います。
何よりもお互いの手を触れ合うのです。

こんなエクササイズと分かち合いからこの AMITY のプログラムはできていま
す。
そして分かち合いのあと、ここで分かち合われたことを他に漏らさないことを
誓い合います。
輪になって肩を組んで祈りをします。イエスとか「アーメン」とかいうのは出
てこないけれど、これは紛れもなく祈りです。

キリスト教一致祈祷週間にあたって


 この1月18日からの1週間は「キリスト教一致祈祷週間」です。
この企画は、世界教会協議会(WCC)と教皇庁キリスト教一致推進評議会が共同で企画しているエ
キュメニカル運動の一環となっています。

 私の属するカトリック鶴見教会では、1月22日に地域のプロテスタントの教会(日本キリスト教
会鶴見教会)との合同祈祷集会が午後3時より予定されています。
 この合同祈祷集会は、もう30年以上続いております。最初は鶴見地区の4教会によって行われて
いましたが、残念ながら現在は2教会となってしまいました。
 4,5年前から夏にも交流会が行われ、バザーやその他の行事に相互の教会員が訪問するなど、交
流が進んでいます。

 祈祷集会では、司祭と牧師の共同司式による祈祷集会のあと、「分かち合い」の集会が行われます
。毎年両教会から50名以上の信徒が参加します。この分かち合いでは、教派は違っても同じ信仰を
もっていることが確認されます。

 いまから20年以上前に、私が信徒会長であったときでしたが、こんな画期的な試みが行われまし
た。
 日本キリスト教会鶴見教会が、教会の改築のために、日曜日の礼拝の場所としてカトリック鶴見教
会を、約1年間使用しておりました。
1階のホールでは、プロテスタント教会の日曜礼拝が、2階の聖堂ではカトリック教会のミサがほぼ
同時に行われていたのです。
 これは歴史的にも画期的なことでした。

 ここのところ、さらに交流を拡大し、地域に共同で働きかけることをしてはどうかということが検
討されております。
 今年の祈祷集会はどのような集まりになるでしょうか。楽しみにしております。