5つのパンと2匹の魚

聖書のマタイ福音書に、イエスが5000人の人びとを5つのパンと2匹の魚で満たされたという場面がある。

夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。
「ここは人里離れたところで、もう時間もたちました。群集を解散させてください。そうすれば、自分で村へ行って食べ物を買いに行くでしょう。するとイエスはいわれた。「行かせることはない。あなた方が彼らに食べる物を与えなさい。」
弟子たちは言った。「ここにはパン5つと魚2匹しかありません。」イエスは「それをここに持ってきなさい」と言い、群集には草の上に座るようにお命じになられた。そして5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、賛美の祈りを唱え、パンを割いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群集に与えた。
すべての人が満腹したそして残ったパンを集めると12のカゴにいっぱいになった。食べた人が女と子どもを別にして男が5000人ほどであった。
(マタイ14章13〜21節)


マタイ15章とマルコ8章にはもう一度同じような場面があるここでは7000人の人に「7つのパンと小さな魚」を分け与えたとある。
またヨハネではこのパンを差し出したのは少年であるとも書かれている(ヨハネ6章1〜14節)。


スンダル
ガンジータゴールと並んでインドの三大聖人のひとりであるスンダル・シングは。ある日瞑想して霊界にあげられたときに、この聖書の箇所をイエスにたずねた。
「主イエスよ、どうやって5000人を養われたのですか?」
「弟子たちはなにも出そうとはしない。しかし、渡しは病に癒された子どもが喜んで自分の持っているパンと2匹の魚を捧げた時、わたしはこれを祝した。すると多くの人が自分の袋に持っていたパンや魚を出さずにはおられなくなった。われもわれもと行って差し出したので、みんなが満ち足りたのだ」
と語られた。
ひとりの少年が差し出したら。その愛の心が次々と伝染して差し出す機運になったということである。

「生命之光」643号所収手島郁郎の文章から引用


何年か前に、この話をある神父さんにしたら、彼は突然怒り出してこういった。
「その解釈は明らかなあやまりである。イエスはここで「奇跡」を起こしたのであり、それを奇跡でないかのごとく言うのはイエスの神性を否定することになる」
とえらい剣幕で言った。
私はその時あえて反論しなかったのだが、この解釈のほうがずっとステキであると今でも思うのである。