エロースとアガペーについて その2


さてニーグレンの「アガペーとエロース その2」です。

ニーグレンは「エロースとアガペーの対比が、人生に対する2つの全く異なった態度の対立に拡がっている」と述べ、それは「本質的な対比」であるとする。
以下の一覧はその「本質的な対比」を一覧してあらわしたものである。本来なら横に並べて対比するのだが、このメールではそれをするとレイアウトが崩れるので、一段で並べて表記する。それぞれのワープロに取り込んだあとに2段に対比するように加工されたい。


エロースは、自己のための善の欲求である。
アガペーは、自己を与えるものである。

エロースは、上昇せんとする人間の努力である。
アガペーは、上から降ってくる。

エロースは、人間が神に行く道である。
アガペーは、神が人間に来る道である。

エロースは、人間の功績であり、救いを得ようとする人間の努力である。
アガペーは、無代価の賜物であり、神の愛のみ業である救いである。

エロースは、自己中心の愛であり、もっとも高いもっとも立派なもっとも崇高な自己主張の形態である。
アガペーは、「おのれの利を求めず」惜しみなく自己を消費する、非利己的な愛である。

エロースは、その生命、神の不滅の生命を得ようとつとめる。
アガペーは、神の生命によって生きる。従ってあえてそれを失おうとする。

エロースは、必要感によって、獲得し、所有せんとする意志である。
アガペーは、惜しみなく与え消費する。なぜならそれは神ご自身の豊かさと充足に基づいているからである。

エロースは、元来人間の愛で、神はエロースの対象である。
アガペーは、元来神ご自身の愛である。なぜなら神はアガペーだからである。

エロースは、神に当てはめられる場合には、人間の愛の雛形によって形作られた愛である。
アガペーは、人間に現れる場合には神ご自身の愛から形を採る愛である。

エロースは、その対象の性質とその美の価値によって決定されるし、依存する。従ってそれは自発的ではなく「誘因のあるもの」で対象の価値によって喚起される。
アガペーは、主権を持ち、対象から独立していて、「悪しきものにも善きものにも」注がれる。従ってそれは自発的で、「誘因のないもの」で受けるに値しない人々に自らを贈与するのである。

エロースは、対象の価値を認め、それ故にそれを愛する。
アガペーは、愛し、対象のうちに価値を創造する。