愛の黄金律について


私はキリスト教系の女子校で「倫理」という教科を教えているのですが、そこで「愛の黄金律」というのを紹介します。
ご存知ですか?
これは古今東西を問わず、通じる倫理・道徳の原理(Golden Rule)といわれるものです。
エスは聖書の中で「自分がしてほしいことを他人にしてあげなさい」と言われています。
孔子は「論語」の中で「己の欲せざるところ人に施す事なかれ」と述べています。
これが「愛の黄金律」と呼ばれている教えです。
この二つの教えは論理的には同じことを言っているように思われるのですが……

5つのパンと2匹の魚

聖書のマタイ福音書に、イエスが5000人の人びとを5つのパンと2匹の魚で満たされたという場面がある。

夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。
「ここは人里離れたところで、もう時間もたちました。群集を解散させてください。そうすれば、自分で村へ行って食べ物を買いに行くでしょう。するとイエスはいわれた。「行かせることはない。あなた方が彼らに食べる物を与えなさい。」
弟子たちは言った。「ここにはパン5つと魚2匹しかありません。」イエスは「それをここに持ってきなさい」と言い、群集には草の上に座るようにお命じになられた。そして5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、賛美の祈りを唱え、パンを割いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群集に与えた。
すべての人が満腹したそして残ったパンを集めると12のカゴにいっぱいになった。食べた人が女と子どもを別にして男が5000人ほどであった。
(マタイ14章13〜21節)


マタイ15章とマルコ8章にはもう一度同じような場面があるここでは7000人の人に「7つのパンと小さな魚」を分け与えたとある。
またヨハネではこのパンを差し出したのは少年であるとも書かれている(ヨハネ6章1〜14節)。


スンダル
ガンジータゴールと並んでインドの三大聖人のひとりであるスンダル・シングは。ある日瞑想して霊界にあげられたときに、この聖書の箇所をイエスにたずねた。
「主イエスよ、どうやって5000人を養われたのですか?」
「弟子たちはなにも出そうとはしない。しかし、渡しは病に癒された子どもが喜んで自分の持っているパンと2匹の魚を捧げた時、わたしはこれを祝した。すると多くの人が自分の袋に持っていたパンや魚を出さずにはおられなくなった。われもわれもと行って差し出したので、みんなが満ち足りたのだ」
と語られた。
ひとりの少年が差し出したら。その愛の心が次々と伝染して差し出す機運になったということである。

「生命之光」643号所収手島郁郎の文章から引用


何年か前に、この話をある神父さんにしたら、彼は突然怒り出してこういった。
「その解釈は明らかなあやまりである。イエスはここで「奇跡」を起こしたのであり、それを奇跡でないかのごとく言うのはイエスの神性を否定することになる」
とえらい剣幕で言った。
私はその時あえて反論しなかったのだが、この解釈のほうがずっとステキであると今でも思うのである。

洗足式 イエスが弟子の足を洗う


 先週のイースター前の1週間を教会では「聖週間」と呼んでいる。その木曜日の13日は「聖木曜日」(英語ではなぜかこの日を Good Tuesday という)といい、普段とは異なる特別な典礼が行われた。
 この日、イエスは弟子たちと「過越を祝う」食事、いわゆる「最後の晩さん」をともにし、そのなかで「最後の晩さんの記念として」「ミサ」を制定される。

 この「最後の晩さん」に先立ち、イエスは弟子たちの足を洗う。(ヨハネ13章1〜11節)ペトロが足を洗われる番になると、ペトロは「主よ、私の足など洗わないでください」とイエスにいうが、イエスは「もしあなたの足を洗わなければ、あなたとは何の関わりもないことになる」といわれ、「それなら、足ではなくても頭も」というのである。


洗足1 教会では、この洗足の場面を聖木曜日の儀式として行っている。司祭が12人の信徒の足を実際に洗うのである。12人の弟子はみな男だったので、普通は男性ばかりが選ばれるのだが、中には女性が選ばれる教会もあるという。
 この儀式はなかなかいい儀式であり、私は好きである。私も何度か足を洗われた。気分がいいというか……………。

 

 


洗足2 ところで、中学1年生と一緒に聖書を読んでいたときに、この場面を生徒がイラストに描いてくれた。イエスもペトロも女の子ふうになってしまっているが、そのイラストの吹き出し部分に「めっそうもございません」と書かれていたのである。もちろん聖書にはそういう表現はない。
 まず「めっそうもない」などという表現が中学生の間にまだ生きていたことにまず驚く。そしてなるほど、ここでのペトロの言葉は「め、めっそうもない」という表現はまさにぴったりな表現なのである。

復活したイエスと出会った弟子たち


 まず、「イエスの復活」についての次の5つの聖書の箇所を読んでほしい。

 1. イエス女性たちの前に現れる (マタイ28章1〜10節)
 2. マグダラのマリアに現れる  (ヨハネ20章11〜18節)
 3. エマオで弟子たちに現れる  (ルカ24章13〜35節)
 4. イエスとトマス       (ヨハネ20章24〜29節)
 5. ガリラヤで弟子たちに現れる (ヨハネ21章1〜14節)

 「これらの箇所に共通することは何か」と中学3年の女子生徒たちに質問してみた。彼女たちはいつもながらきわめて率直である。
「なんかへん。幽霊みたい。」
「なんで皆それがイエスとすぐに気づかないのだろう。ずっと一緒にいたのに気づかないなんて変だよ」
「弟子たちがそれがイエスだと気づくとイエスはまた消えてしまう」
 復活したイエスは確かにその前のイエスとははっきりと違う姿あったようである。

 それがイエスであると気づくきっかけは何だったのか?と続けて質問する。
 「パンを裂く」
 「イエスの傷に触れる」
 「網をおろすように指示する」
などのシンボリックな何かであった。

 なぜイエスは誰もが否定できないような復活の証拠を残されなかったのか? 
 なぜ弟子たち以外のたとえばファリザイ派の学者の前に出現されなかったのか? もしそのように出現されたら、それは歴史的な事実となってもっと多くの人がイエスを信じたのではなかったのか? このこともまた私たちの想像力をかき立てる。

 このイエスの復活について、わたしは次のように生徒たちに説明する。
 確かにイエスの復活について歴史の中で証明するのは聖書しかない。しかし『イエスが復活した』というキリスト教徒がいたということはユダヤ人の歴史書やローマの歴史書に残っている。これは歴史的な事実である。
 イエスが十字架につけられて殺されたあとに、弟子たちは皆失意のうちにちりじりとなった。あるものはふるさとに帰ろうとした、
 しかし何かがあって彼らは希望を取り戻し、再び集まって教会を作り、布教活動を始めたということも歴史的な事実である。この『なにか』の宗教体験を『復活したイエスとの出会い』であると福音書は記しているのである。
 つまり、失望から希望へ、失意のうちから立ち直って勇気を取り戻し、以前のような弱虫でない使徒へと変身していくそのきっかけを与えたものが「復活したイエスとの出会い」であった。これこそまさに「復活」ではないのか。復活したイエスと出会った弟子たちも〈復活〉したのである。

「星降る夜」のおススメ

これも生徒におすすめする感動的体験です。

名付けて「星降る夜のオススメ」。

1年で一番流れ星の見られる夜はいつだかわかりますか?
8月13日の明け方2時から4時頃まで、地球が「ペルセウス座流星群」の中に入って、もっとも流れ星が見られるときなのです。
月の状態から考えると今年は「良」だそうです。
この日を、空がきれいに見えイルミネーションのない田舎で過ごす方には特にオススメです。

わたしはいまから40年近く前に、長野と岐阜の県境にある清内路村というところで、この「星降る夜」を体験しました。
大学生だった私は、このとき「ハイランドスクール」とかいって、受験生を集めて10日くらいの夏期講習会をこの清内路村の農家にホームステイして過ごし ました。
そのときに、参加した高校生たちと農家の庭先にむしろをひいて、みなで夜空を仰いでいました。
流れる、流れる、1分間に1個の割合で流れ星が流れるのです。(記憶はオーバーに作り替えられるので実際にはもっと少なかったかもしれませんでしたが)
一緒にこれを見た高校生たちは「もう願いごとがない」というくらいに願いごとを念じていたようです。

この「星降る夜」を忘れられず、またこのときになるとよく流れ星を見に、いろいろなところにいきました.
丹沢のヤビツ峠、富士スバルライン……………。
でもあの時ほど見えたことがない。キリが出てきたり、雲がかかっていたりで、なかなか見えないのですね。
私の家の屋上から見たこともありますし、名古屋の研修センターの屋上から見たこともあります。
でもこの場合には10分間に1個くらいの割合でした。

だから、当たりはずれがあるのですが、今年は久しぶりの「良」だそうです。
これは月の満ち欠けと関係があって、月は出ていない方が、空がくらくてよく流れ星が見られるのです。
この流星群は、1月の「しぶんぎ座流星群」、12月の「ふたご座流星群」 とあわせて「3大流星群」のひとつです。

 

夏休みの法則

「夏休みの充実度についての6つの法則」別名「イタールの法則」と言われています。
「喜びの法則」とか「good news の法則」とか「法則づくり」が大好きな私です。

第1法則 夏休みの充実度は、流した汗の量に比例する。
つまり、冷房の効いた部屋にこもってうだうだするのではなく、思いきり汗を流すような運動をしてみよう。夏は暑いのが当たり前、汗をだらだら流すのは自然なことなのです。スポーツ部のみんながんばれ!なのですね。

第2法則 夏休みの充実度は、読んだ本のページ数に比例する。
夏休みこそ普段読めないような、長い小説を読んでみるチャンスです。

第3法則 夏休みの充実度は、感動した回数に比例する。
映画を見たり、本を読んだりして感動するのもいいのですが、毎図から体験したことで感動するのがもっともよろしい。

第4法則 新しく友達になった人の数に比例する。
夏休みは友達を作るチャンスです。しかもまったく環境の異なるところの友人を作ることができます。

第5法則 後でふり返って思い出すことのできる日の数に比例する。
毎日同じことの繰り返しではいけません。後でふり返ったときにこの日はこれをした日だった、次の日は友達と長いおしゃべりをした日だったなどなど、あとで思い出すことのできる日の多さに比例します

第6法則 「できたらリスト」のチェック数に比例する。
夏休みの前に、これをできたらいいなと、やれたらいいなと思うことをできるだけたくさん書き出してリストにしておきましょう。それは「部屋を掃除する」とか「久しくあっていない友達に手紙を書く」などのごく簡単なことでもいいのです。そしてそれをできたら「チェック」を入れておく、そのチェックの入った項目の数によるのです。つまり「できたらいい」と思うことをできた数なのです。「できたらリスト」「やれたらリスト」のほかに「やらねばリスト」というのもあります。これを加えておいてもいい。

さてまだ、第7法則、第8法則と続くでしょう。それはぜひ皆さんが付け加えていってください。

「自分がイヤになるとき」のリストの中に「夏休みの最後の日」というのを書く生徒がいます。
これらの法則に従って夏休みを過ごせたら、きっとすてきな夏休みとなるでしょう。

診察の記録

 

診察室に入ると、いつものように先生は
先生「調子はどうですか?」 と聞いてきました。

父は、待ってましたとばかりに
父 「実は先生、先生がいつも “調子はどうですか” って聞いてくるのを
   今まで私は、挨拶みたいなものだと思ってたんです。
   だからいつも “おかげさまで” と答えてたんですけど
   この間、娘や息子に
   『先生は、お父さんの頭や体の調子聞いてきてるんや』 と言われまして
   実際は、どうだったのかなぁ〜と思って・・・
   それで、病気の事で聞かれてたんなら
   まぁ、調子は悪くないんですけど、色々と症状はあるもので・・・」

先生は笑いながら
先生「そんなに気にしなくていいんですよ〜(笑) 
    それで、どうなんですか?」
父 「書いておかないと忘れるのでメモして、息子にまとめてもらいました」
と言って、用意していた紙を先生に渡しました。

★父がメモした文章を元に、簡単にまとめたもの

・日常生活
  仏壇の供え物を変える日を間違えた
  ゆで卵を作るのを失敗してショックを受けた(7/17)
  (昔からよく作っていたが、今まで失敗したことはなかった)
  いろんな事に対して意欲がなく面倒くさい (散歩、読書、麻雀、友人への電話)
   
・金銭面 
  お金の計算、やり取りを間違う
  (ガス代の集金、歯医者の支払い、買い物)
  スーパーのレジで、店員にお金が足りないと言われてパニックになる
  いくら足りないのかが分からず、何回も小銭をだして
  3回目でやっと金額が合う (最近で一番ショックだった)

・難しい話や議論、長時間の会話が苦手
  生命保険の話 (息子に任せた) 
  お客さんとの難しい会話 (政治の話など)
  息子との口喧嘩
  一方的に合間なく喋られると、気分が悪くなったりイライラする(実の兄)

・親しい友人との間でトラブル
  言った言わないの話でトラブル
  会話がずれてると指摘された
  被害妄想があると言われた

・仕事上のミス 
  新しいお客さんの名前が覚えられない
  新しい機械の使い方を覚えられない (紙に書いている)
  接客以外の事ができない (経営は息子にまかせるようになった)
  時々、息子が用事で外出すると不安。1人で店番するのが怖い
  しばらくしていなかった仕事のやり方を忘れた
  仕事の順序を間違えた
  仕事の電話をとったが、電話に出た事を忘れていた
  間違った記憶を作ってしまう
  (お客のWさんは、自分の中では、息子が接客したと記憶していた
   息子が仕事していた場面まで、頭に浮かんできたのだが
   データを確認すると実際は、息子ではなく自分が接客していた)